つれづれなるままに
思いついたことを書いてみます。
ここ22年の人生を振り返ると、なんとものを考えずに生きていたことかと思い、驚きを隠せません。
大学の選択に始まり、テスト勉強・恋愛の駆け引き・私の正義との闘い・他人へかけた言葉や果ては弓の引き方まで、感覚でやっていたせいでいろいろ大変な思いをしてきたものは枚挙に暇がないのです。
大学入試が案外上手くいってしまったがため、私が望んだとおりに一所懸命行えば神の見えざる手に導かれると思ってしまい、ついには資本主義経済よろしくにっちもさっちもいかないところに向かいつつあるように思われます。
もちろん思い切りのよいことは大切ですが、無策で敵に突っ込むのは、古くはドン・キホーテから現代の中二病に至るまで遍くバカにされてきた、由緒正しい愚かさの極みであります。
「男たるもの打算で動くべからず、己の正義を貫けばおのずと世間がついてくる」とうそぶいていい年代をとっくに過ぎてしまった今、少しは頭で考え、リスクマネジメントを行ったうえで行動すべきでは、と最近思い至りました。
思いつきで患者さんの生活を左右するべきではないのです。
今日突然思い至ったことがすぐに実行できるとは思っておりません。ただしこのままにしておくとここまで考えたことも忘れてしまうので、こうやってメモをとっているわけです。メモメモメモ。
この記事を読んだ人は、管理人を見つけ次第「少しは大人になれよ!」と声をおかけください。
この頃の趣味
何やらブログらしいテーマを書く道場管理人です。
ちなみに最近よく屋上にいます。
というのも、基礎棟と臨床棟を繋ぐように立っている共同利用研究施設棟なる建物があるのですが、何故か基礎棟や臨床棟よりも低く、私が入り浸っている生理学教室からみるとちょうどベランダのような位置に屋根があるのです。
廻りが大学の建物に囲まれているため景色がいい訳でもなく、もちろん大学の施設なので殺風景で、これと言って楽しみがあるわけでもない。わずかに暑い日に風に当たるのが気持ちいいだけだけれど、日差しが強いのに相殺されている気がする。
それでもよく何故かお気に入りの三ツ矢サイダー(500ml缶)を持って飲むのは、そこが他者のいない空間だから。
ちょっとした優越感を楽しむ日々でした。
新学期だよ。ヅラえもん 春の大妄想大会。
新学期初更新の道場管理係です(この肩書いつまで・・・)。
新入生なども見学に来てくれているようで、何よりです。この頃は新入生に対して道場内でどういう立ち位置でいくかちょっと悩ましい今日この頃です。
さて、こんな前置きを全く無視して、ちょっと想像を巡らしている今日この頃です。同級生の中には既に就職決めている人もいるらしく、進路のこととか少し。
今のところの理想は「ラボって救える精神科医」をキャッチフレーズに、大学で研究するのが夢なのですが、村上春樹の新刊が出たので小説家になった自分も考えてみています。
とかく小説家は自分の体験に基づいた作品を書いている人が多いように思います。京大生の生活を描きまくる森見登美彦しかり、学生紛争の時代をデビュー初期に書いていた村上春樹しかり。
もし今を下敷きにした小説を書くなら、と考えると、フレーズがいくつか思い浮かんできます。
「今は1人の時間を楽しんできてるだけなの。」
「先輩、大学内を白衣きて聴診器ぶら下げて歩けばいいじゃないですか?」
「それインドネシアでも通用するとおもってるの?」....etc
書籍化が待ち遠しい限りです。
雨にも負けず 風にも負けず
疲れにも 審査の時のプレッシャーにも負けず
確かな射型を持ち
欲はなく
決しておごらず
いつも静かに引いている
一日にたくさん引いて
的場と道場掃除をして
あらゆることを 自分を勘定に入れず
良く見聞きして忘れず
丘の上のさくらの下の
小さな道場の中にいて
東に西医があれば 行ってレギュラーとして参加し
西に三校戦あれば 役員として参加する
土束の時は涙を流し
寒さの時はストーブを点け
褒められもせず
ウザがられもせず
そういうものに
わたしはなりたい
長い文章を書ける気がしない。
すみません。今の心境はこんな感じです。
長い文章書くには本当に体力使います。もシータってあんなに下らない文章だったけど、これでなかなか何時間かかけて書いてました。
これが管理人の限界ですね。
あのサイズの文章をまとめるのもなかなか骨が折れるぐらいの能力なのでしょう。
練習すればするほど上手くなるという上昇志向を頼りに、ブログを書いてます。
にははー。
体がだるいOSCE前夜。
おなかがたまにいたい。
全体的にいたい場合は腹部の触診の時にどこから触ればいいのだろう?
偏り
以前、友人と生き方の話をしたことがあった。曰く、友人は偏りを排し、中庸を目指しているという(宗教まで排しているのは人を理解するうえで極端なように思われるけれど)。
偏りは、偏っている本人は気付かないものである。弓を引いていて、体軸が引いていたり反っていたりしても、得てして気付かないものである。それに最近気付こうと、鏡を使って引くことでなるべく気をつけている。
翻って日頃の生活について考えてみる。最近、自分に対して心を尽くしている人に対して、きちんと礼儀を尽くしていないことに気づくことがあった。自分を中心とした偏った視点で、人からの行為を無碍にすることが多かったのだ。
私は自分の生き方を鏡で映し、生き方を矯正しなければならない。という決意の文章。